その日の夕食の後――「本当に大したお方ですね、イレーネさんは」書斎に紅茶を淹れに来たリカルドがルシアンと話をしている。「何が大したお方だ。ブリジット嬢と友達になったと聞かされて俺がどれだけ驚いたと思っている。全く……これでは心臓がいくらあっても足りなくなりそうだ」しかめた顔で紅茶を飲むルシアン。「で、ですが……まさかイレーネさんが、ルシアン様だけでなくブリジット様まで懐柔してしまうとは……クックックッ……」リカルドは肩を震わせ、左手で顔を覆い隠している。「リカルド……お前、面白がっているだろう? 大体、懐柔とは何だ? 俺は別にイレーネに懐柔されてなどいないが?」「そう、そこですよ。ルシアン様」「何だ? そことは?」「イレーネさんのことをそのように呼ぶことですよ。今までどの令嬢全てにおいても敬称つきで呼ばれていたではありませんか? ……あの方を除いては」「……」その言葉に黙り込んでしまうルシアン。(しまった。少し余計なことまで口にしてしまったかもしれない)黙り込んでしまったルシアンを見て、リカルドは慌てたように話題を変えた。「そ、それにしても私たちがほんの3日留守にしていただけなのに、イレーネさんは既にこの屋敷で自分の地位を築き上げていたようですね。使用人たちが口を揃えて言っておりましたよ? イレーネ様はルシアン様の不在中、立派な女主人を務めておりましたと」「……まぁ、彼女はあんな細い身体なにのに、肝は据わっているからな」「ええ。ですからきっと現当主様はイレーネさんのことを気に入ると思いますよ」「だといいがな。だが、気に入られなくても構うものか。どうせ彼女は1年限りの契約妻なのだから」(そうだ、一刻も早くマイスター家当主に認めてもらうためにもイレーネを祖父に会わせなくては……)そして再びルシアンは紅茶を口にした――****――翌朝、朝食の席「え? 来週、ルシアン様のお祖父様に会いに行くのですか?」フォークを手にしていたイレーネが目を見開く。「ああ、そうなる。祖父に俺を次期当主に認めてもらうには結婚相手である君を引き合わせなくては話にならないからな。祖父は気難しい男だ。不安なこともあるかもしれないが……」「御安心下さい、ルシアン様。何も不安に思うことはありませんわ」「は? い、いや。俺が言ってるのは……」その言
翌日の朝食後――「イレーネ様、お出掛けにはこちらのドレスがよろしいかと思います」本日の専属メイドがウキウキしながらイレーネにドレスをあてがう。そのドレスは落ち着いた色合いのブラウンのデイ・ドレスだった。勿論、このドレスもイレーネが自らマダム・ヴィクトリアの店で購入したドレスであある。「あら、あなたもこのドレスが気に入ったの? ブラウンだったからどうかと思ったけれど……私たち、気があいそうね」ニコニコと笑みを浮かべるイレーネ。「ほ、本当ですか? イレーネ様!」メイド……リズは、美しく逞しいイレーネに密かに憧れていた。その相手から気が合いそうと言われ、喜んだのは言うまでもない。「ええ。年も見たところ私と変わりなさそうだし……名前を教えて頂けるかしら?」「はい、私の名前はリズと申します。私がこのドレスを選んだのには理由があります。何故ならこのドレスはルシアン様の髪色と同じ色だからです。初デートとなれば、やはりこのドレスしかありません!」きっぱりと言い切るリズ。「え……? デート?」デートと言う言葉に首を傾げるイレーネ。「はい、そうです。だって、初めてでは無いですか。お二人だけで外出なんて」(私とルシアン様は単に現当主様に会う為の準備を整える為に買い物に出掛けるのだけど……?)しかし、目の前でキラキラと目を輝かせているリズを前に本当のことを言う必要も無いだろうとイレーネは判断した。「そうね、確かに初めてのデートだもの。気合をいれないといけないわね。それではルシアン様をお待たせするわけにはいかないので、準備をするわ」「お手伝いさせて下さい!」こうして、イレーネはリズの手を借りながら外出準備を始めた――****「ルシアン様」ルシアンのネクタイをしめながら、リカルドが声をかけた。「何だ?」「本日の外出の目的はイレーネさんのドレスを買いに行くのですよね?」「そうだ、何故今更そんなことを尋ねる?」「いえ、少し確認したいことがありますので」「何だ? 確認したいこととは」鏡の前でネクタイを確認しながら返事をするルシアン。「ドレスを購入された後はどうされるおつもりですか?」「どうするって……そのまま、真っすぐ帰宅するつもりだが?」「何ですって? そのまま帰られるおつもりだったのですか? デートだと言うのにですか? 他に何処にもよ
「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネ様」馬車の前に立つ2人にリカルドが笑顔で声をかける。彼の背後には20人近い使用人達も見送りに出ていた。「あ、ああ。行ってくる」物々しい見送りに戸惑いながらルシアンは返事をした。次に、隣に立つイレーネに視線を移す。「では、行こうか? イレーネ」「はい。ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をすると、2人は馬車に乗り込んだ。「リカルド、外出している間留守を頼むぞ」ルシアンは窓から顔をのぞかせると、リカルドに声をかけた。「はい。お任せ下さい、ルシアン様」リカルドはニコリと笑みを浮かべ、次にルシアンに近づくと小声で囁く。「どうぞお仕事の方はお気になさらずに、ごゆっくりしてきて下さい。くれぐれも早くお帰りいただかなくて結構ですからね?」「あ、ああ……分かった。で、では行ってくる」まるで、早く帰ってきては許さないと言わんばかりのリカルド。その口調にたじろぎながらもルシアンは頷くのだった……。**「ルシアン様、ところで本日は何処へ行かれるのですか?」馬車が走り始めるとすぐにイレーネが声をかけてきた。「そうだな……とりあえず、町に出てブティックを数件周って服を購入しよう。祖父は身なりに煩い方だ。場をわきまえた服装でいなければネチネチと嫌味を言ってくるかもしれないからな。余分に買い揃えておけば間違いないだろう」少々大袈裟な言い方をするルシアン。(本当は、そこまで口煩い祖父では無いのだがな……イレーネにドレスを買わせるには大袈裟に言った方が良いだろう。そうでなければ彼女のことだ。きっと遠慮するに違いないからな)すると、案の定イレーネはルシアンの言葉を真に受けた。「この間10着以上もドレスを購入したばかりです。なので新たに購入するのは何だか勿体ない気も致しますが……当主様が服装に細かい方でしたら致し方ないかもしれませんね。何しろ私の役割はルシアン様が次の当主となれるようにお飾り妻を演じきることなのですから」「あ、ああ……ま、まぁそういうことになるな」きっぱりと「お飾り妻」と言い切るイレーネに苦笑しながらもルシアンは頷く。「よし、それではまず最初は前回君が訪れた『マダム・ヴィクトリア』の店に行くことにしよう」「はい、ルシアン様」――4時間後ガラガラと走る馬車の中で、イレーネとルシアンは会話していた
「そういえば買い物に気を取られていてお昼のことを忘れていたな。もう14時を回っている」ルシアンは腕時計を見た。「まぁ、14時を過ぎていたのですね? 買い物が楽しくて、すっかり時間を忘れていましたわ」「そうか? そんなに楽しかったのか?」イレーネの言葉にまんざらでもなさそうにルシアンが頷く。「はい、『コルト』に住んでいた頃は洋品店の窓から店内を覗くだけでしたから。実際に買い物をすることなど滅多にありませんでしたので」「あ、ああ……何だ。そっちのほうか……」落胆した声でボソリとつぶやくルシアン。「え? 今何かおっしゃいましたか?」「いや、何でもない。それでは少し遅くなってしまったが、何処かで食事でもしていかないか? この通りには様々な店が立ち並んでいるからな」「はい、そうですね」そこで2人は馬車から降りると、通りを歩いてみることにした――**「ルシアン様、このお店はいかがですか? なかなかの盛況ぶりですよ?」イレーネが駅前の噴水広場の正面にある店の前で足を止めた。「……あ。この店は……」ルシアンは店をじっと見つめる。「どうかしましたか? このお店のこと御存知なのですか?」「ああ……知っている。ここは開業してまだ5年目程の料理屋なのだが、元王宮料理人が開いた店で貴族達の間で人気の店なんだ」「まぁ。そんなに有名なお店だったのですか」「そうだ。……以前は俺も良くこの店に通っていたのだが……」そこでルシアンは言葉を切る。「どうかされましたか? ルシアン様」「い、いや。何でもない」首を振るルシアン。(そうだ、あれからもう4年も経過しているんだ。……多分大丈夫だろう)ルシアンは頭の中を整理すると、再びイレーネに声をかけた。「それでは……この店にしてみるか?」「はい、そうしましょう」笑顔で答えるイレーネ。そこで店の中へ入ると、すぐに笑顔のウェイターが現れて2人を窓際のボックス席へ案内をした。「イレーネ、どれでも遠慮せずに好きな料理を頼むといい」メニューをじっと見つめているイレーネにルシアンは声をかけた。「ありがとうございます。まあ……どれも美味しそう」(随分楽しそうだな……)楽しそうにメニューを選んでいるイレーネを見ていると、ルシアンはまるでこれが本当のデートのように思えてきた。「う〜ん……これだけ沢山のお料理
――17時「ええっ!? そ、そんなことがあったのですか!?」書斎にリカルドの声が響き渡る。「ああ……そうなんだ。全くいやになってしまう……あのウェイターのせいで最悪だ……。まさかイレーネの前でベアトリーチェの名前を口にするとは思わなかった」すっかり疲れ切った様子のルシアンが書斎机に向かって頭を抱えてため息をつく。「そ、それでイレーネさんの様子はどうでしたか?」リカルドが話の続きを促す。「……別に」「は? 別にとは?」「全く気にした様子は無かった」「そうなのですか!?」「ああ、それどころか微塵も興味が無い様子だった。このお店はお昼を過ぎているのに盛況ですねとか、祖父の話とか……世間話ばかりだった」「なるほど、それなら良かったではありませんか」笑顔になるリカルド。だが、やはりルシアンは良い気分では無い。(ベアトリーチェのことを気にしないのは助かったが……それはそれで面白くない。イレーネは俺個人に全く興味が無いということなのか?)そんなことを考えながらルシアンは面白くなさそうに自分の考えを口にした。「……だが、もうあの店には当分行かない。接待でも利用するのはやめよう。……気まずくて仕方がないからな」「はい、了解いたしました」「あと、厨房に伝えてくれ。昼食を食べた時間が遅かったので、イレーネの今夜の食事はいらないと」「そうなのですか?」ルシアンがその言葉に目を見開く。「ああ。イレーネ本人がそう話していたのだ。……彼女は随分少食だな。あんなに痩せているのだから、もっと食事をするべきなのに……」ため息をつくルシアンを見てリカルドは思った。(ルシアン様はイレーネさんのことが随分気がかりのようだ)と――****――21時イレーネが部屋で洋裁をしていると、不意に扉のノック音が響き渡った。「はい、どちらさまですか?」扉を開けると、ワゴンを押したリカルドが立っていた。「まぁ、リカルド様ではありませんか」「イレーネさん、お夜食を運んでまいりました。よろしければいかがですか?」「お夜食ですか?」「はい、ルシアン様が念のため用意するように仰ったのです」ワゴンの上にはティーセットにサンドイッチが乗っている。「そうですね。では折角なのでいただきます」「では失礼いたします」ルシアンはワゴンを押しながら部屋に入ると、テーブル
あれから数日が経過し……週末を迎えた。「それでは皆、俺とイレーネは数日の間留守をする。屋敷のことは任せたぞ。何かあればリカルドに話を通しておくように」ルシアンは馬車の前まで見送りに集まった使用人たちを見渡した。「ルシアン様、イレーネ様。留守の間はどうぞ私にお任せ下さい」リカルドが恭しく頭を下げる。「うむ、頼んだぞ」すると次にメイド長が進み出てきた。「イレーネ様、本当にメイドを連れて行かなくて良いのですか?」「えぇと……それは……」イレーネが口を開きかけた時。「あぁ、メイドは連れて行かない。『ヴァルト』にはメイドも沢山いるからな。2人だけで行く」ルシアンはできるだけ、使用人を連れて行きたくはなかった。何故なら車内で色々と打ち合わせをしておきたかったからだ。使用人たちが一緒では、込み入った話もすることが出来ない。しかし……。ルシアンの言葉を他の使用人たちはリカルドを除いて、別の意味で捉えていた。『ルシアン様はイレーネ様と2人きりで誰にも邪魔されずに外出したいに違いない』「よし、汽車の時間もあることだし……そろそろ行こうか? イレーネ」「はい、ルシアン様」笑みを浮かべて返事をするイレーネ。こうして2人は大勢の使用人たちに見送られながら屋敷を後にした――****「イレーネ。もう一度状況を確認しておこう」馬車に乗ると、神妙な顔つきでルシアンはイレーネに話を始めた。「はい、ルシアン様」「まず、俺とイレーネの出会いだが……」「はい。祖父を病で亡くし、天涯孤独になった私は仕事を求めて大都市『デリア』にやってきました」「そこで道に迷って困り果てていた君に俺が声をかけた」ルシアンが後に続く。「それが出会いのきっかけとなりました」「そう。その後2人は意気投合し……やがて互いに惹かれ合って、婚約する話に至った……これでいくからな」「はい、分かりました。大丈夫です、お任せ下さい。概ね、話の内容は間違えてはおりませんから。立派にルシアン様の婚約者を演じてみせますね。御安心下さい」「ああ、そうだ。よろしく頼むぞ。祖父に気に入られたら、君に臨時ボーナスを支払おう」すると、その言葉にイレーネの目が輝く。「本当ですか!? それではますます気合を入れて頑張りますね? よろしくお願いいたします」何とも頼もしい返事をするイレーネ。「ま
「まぁ……私、寝台列車なんて乗るの生まれて初めてですわ。こんなに素敵な内装の車両があるのですね。まるで一流ホテルみたいですね」ルシアンと一緒に一等車両に乗り込んだイレーネは物珍しそうにキョロキョロと見渡す。「そうか? そんなに珍しいか?」(まるで子供のようだな)目を輝かせながら、嬉しそうにカーテンに触れているイレーネをルシアンは微笑みながら見つめ……慌てて首を振った。(馬鹿な! 一体俺まで何を浮かれた気持ちになっているんだ? これから祖父とイレーネを引き合わせるという大仕事が待ち受けているというのに……! どうも彼女といると調子が狂ってしまう)「……様、ルシアン様!」「あ、ああ? 何だ?」考え事をしていたルシアンはイレーネに呼ばれて我に返った。「確か寝台列車というものは2段ベッドになっているのですよね? それではどちらが上で寝ますか? 私はどちらでも構いませんよ?」その言葉にルシアンは目を見開く。「君は一体何を言ってるんだ? いいか? 確かに俺たちは婚約者同士だが、それはあくまで名目上。同じブースで一晩過ごすはずがないだろう? 通路を挟んだ隣にもう一つ寝台スペースを借りている。俺はそこで寝るからイレーネはこの場所を使うといい」イレーネのトランクケースを棚の上に全てあげるとルシアンは隣のスペースに移動しようとし……。「お待ち下さい、ルシアン様」不意にイレーネに背広の裾を掴まれた。「な、何だ? 一体」女性に背広の裾を掴まれたことが無かったルシアンは戸惑いながら振り返る。「就寝時間までは、まだずっと先ではありませんか。よろしければ、ルシアン様もこちらの場所で過ごしませんか? 折角の2人旅なのですから楽しみましょうよ」(楽しむ……? 楽しむって一体どう意味だ!?)その言葉に何故かルシアンはドキリとするも、頷く。「ま、まぁ……別に俺はそれでも構わないが……」「本当ですか? ではどうぞ向かい側にお座り下さい」「分かった」(本当は持参してきた仕事をしようと思っていたが……まぁ、彼女の前でも出来るだろう)言われるまま、素直に向かい側に座るルシアン。「それではルシアン様。早速ですが……始めませんか?」「は? 始める? い、一体何を始めるんだ?」扉が閉められた密室の空間。イレーネの意味深な言葉に緊張が走る。「決まっているではあり
――19時半 イレーネとルシアンは2人で食堂車両で食事をとっていた。「こちらの料理も、本当に美味しいですね。このお肉、とてもジューシーだと思いませんか?」イレーネはすっかり上機嫌で食事を口にしている。一方のルシアンは……。「それにしても……君があんなにカードゲームが強いとは思わなかった」ため息混じりにワインを口にする。「そうでしょうか? でも私が勝てたのは敢えて言えば……」「敢えて言えば? 何だ?」話の続きを促すルシアン。「それはルシアン様が分かりやすい方だからですわ」「ええ!? わ、分かりやすい? この俺が!?」「はい、そうです。ルシアン様は良いカードが回ってくると顔に出てしまうからです」「そ、そうか? 今まで何度も仲間内でカードゲームをしたことはあったが……そんな風に指摘されたことは一度も無かったぞ? 現にこんなに負けてしまったことは無かったし……」(もし、これでお金を賭けていれば今頃どうなっていたかと思うとゾッとする)ルシアンは身震いしながら考えた。「ええ、確かに傍目からは気付かない小さな変化ですが……気づいていませんでしたか? ルシアン様はツキが回ってくると、口角がほんの数ミリ上がるのです」「え? こ、口角が!?」慌てて口元を隠すルシアン。「プッ」その様子にイレーネが小さく笑う。「い、今……笑ったな?」「あ……申し訳ございません。今のルシアン様の様子が、その……可愛らしかったものですから……」可笑しくてたまらないかのように肩を震わせるイレーネ。「ええ!? お、俺が可愛らしいだって!?」(俺は成人男性だぞ!? それなのに可愛らしいだとは……!)けれど目の前で笑っているイレーネを見ていると、不思議なことに怒りが湧く気持ちにもならない。むしろ、穏やかな気持ちになってくる。そして、美味しそうに食事をしているイレーネを見つめるのだった――****――22時「それではお休みなさいませ、ルシアン様」隣のブースに映るルシアンにイレーネが声をかけた。「ああ、おやすみ。『ヴァルト』には、明日10時到着予定だ。7時になったら朝食をとりに食堂車両へ行こう」「はい、分かりました。それではまた明日お会いしましょう」ルシアンの言葉に、笑みを浮かべるイレーネ。「ああ。おやすみ」そしてルシアンは通路を挟んだ隣のブースに移
――その日の夕方屋敷に帰宅したルシアンは早速リカルドを呼び出していた。「ルシアン様……また何か問題でもありましたか……?」リカルドは明らかに不機嫌な様子をにじませているルシアンに尋ねた。「ああ、ある。重要な問題がな……だからお前を呼んだのだろう?」「今日は、イレーネさんとデートだったのですよね? な、何故そのように不機嫌なのでしょう? 楽しくはなかったのですか?」「デートだと? いいや、それは違う。単に2人で一緒に出かけただけだ……しかも、よりにもよって例の空き家にな!」ジロリとリカルドを睨みつけ、腕組みするルシアン。「ですが、本日あのお屋敷に行く話はルシアン様も承諾したではありませんか? それなのに何故いまだに不機嫌なのでしょう?」「それはなぁ……あの屋敷の家財道具が一切そのまま残されていたからだ! 一体どういうことだリカルド! 処分しなかったのは家だけじゃなかったのか!?」怒鳴りつけるルシアン。「ですが、処分したら勿体ないではありませんか!! まだまだ使えるものばかりなのですよ! しかも全て、あの方の好みに合わせた女性向けのブランド家具なのですから! 大体ルシアン様がいけないのですよ? 何もかも、全て私に任せると仰ったからではありませんか!」リカルドも大声で負けじと言い返す。「そこが問題だ! いいか? 俺がイレーネを々連れて行ったのは、あの屋敷を諦めさせるためだったのだ。駅からも遠いし、買い物にも少々不便な場所だ。その様な場所は好まないだろうと思ったからだ!」「確かに、あの地区は生活するには少々不便な場所ですね。住民もあまり暮らしておりませんせし……だからこそ、あの屋敷を買われたのではありませんか。ひと目につきにくい場所で、あの方とお忍びで会うために……」「やめろ! 彼女の話は口にするな!」そしてルシアンはため息をつくと、言葉を続けた。「……悪かった。つい、きつく言ってしまった……。そうだよな、俺が悪かったんだ……彼女のことを一刻も早く忘れるために、全てお前に丸投げしてしまった俺が」「ルシアン様……」「ただでさえ、あの屋敷には近付きたくも無かったのに結局行く羽目になってしまったし。鍵はお前から預かったものの、入るつもりは無かったのだから。なのにイレーネは見ていたんだよ。おまえが俺に鍵を渡す所を。それで中に入りたいと言ってき
――10時半ルシアンとイレーネは、とある場所にやってきていた。「まぁ……! なんて素敵なお屋敷なのでしょう!」イレーネが目の前に建つ屋敷を見て感動の声を上げる。「芝生のお庭に、真っ白い壁に2階建ての扉付きの窓……。まぁ! あそこには花壇もあるのですね!」結局ルシアンはイレーネの言うことを聞いて、リカルドがプレゼントすると約束した空き家に連れてきていたのだ。『ミューズ』通りの1番地に建つ屋敷に……。「そ、そうか。そんなに気に入ったのか?」引きつった笑みを浮かべながらルシアンは返事をする。(くそっ……! もう、二度とこの場所には来たくはなかったのに……まさか、こんなことになるとは……! 本当にリカルドの奴め……恨むからな!)心のなかでルシアンはリカルドに文句を言う。「だ、だがイレーネ。この屋敷はもう古い。しかも郊外から少し離れているし……暮らしていくには何分不便な場所だ。家が欲しいなら、もっと買い物や駅に近い便利な場所のほうが良いのではないか? 俺が新しい家をプレゼントしよう」何としてもこの場所から引き離したいルシアン。けれど、イレーネは首を振る。「いいえ、新しい家だなんて私には勿体ない限りです。この家がいいです。だって……なんとなく生家に似ているんです。私の家もこんな風にのどかな場所に建っていました。何だか『コルト』に住んでいた頃を思い出します」「イレーネ……」ルシアンにはイレーネの姿がどことなく寂しげに見えた。しかし、次の瞬間――「それに、こんなにお庭が広いのですから畑も作れそうですしね!」イレーネは元気よくルシアンを振り返った。「な、何!? 畑だって!?」「はい、そうです。ちょうどあの花壇のお隣の土地が空いているじゃありませんか? そこを耕すのです。最初は簡単なトマトから育てるのが良いかも知れませんね。カブやズッキーニ、パセリなどは育てやすく簡単に増えます。あ、ハーブも必要ですね。バジルや、ローズマリー、それに……」(まずい! このままではまた1時間近く話しだすかもしれない!)指折り数えるイレーネにルシアンは必死で止める。「わ、分かった! そんなにここが気に入ったなら……この家を今からプレゼントしておこう。何しろ次の当主は俺に確定したようなものだからな」本当なら、出来ればこの屋敷をイレーネに渡したくなかった。何故な
「え? 今日1日、私の為に時間を割く……? 今、そう仰ったのですか?」朝食の席で、イレーネは向かい合って座るルシアンを見つめた。「ああ、そうだ。俺は無事に祖父から次期後継者にすると任命された。こんなに早く決まったのはイレーネ、君のお陰だ。あの気難しい祖父に気に入られたのだから」「ありがとうございます。でも私は何もしておりません。ただ伯爵様とおしゃべりをしてきただけですから。ルシアン様が選ばれたのは元々次期後継者に相応しい方だと伯爵様が判断したからです。それにゲオルグ様が失態を犯してしまったこともルシアン様の勝因に繋がったのだと思います」「そうか? そう言ってもらえると光栄だな」元々次期後継者に相応しいと言われ、満更でもないルシアン。「それで、イレーネ。今日は何をしたい? どこかに買い物に行きたいのであれば、連れて行ってやろう。何でも好きなものをプレゼントするぞ。臨時ボーナスとしてな」すると、食事をしていたイレーネの手が止まる。「本当に……何でもよろしいのでしょうか?」真剣な眼差しで見つめてくるイレーネ。「あ? あ、ああ……もちろんだ」(何だ? い、一体イレーネは俺に何を頼んでくるつもりなのだ……?)ルシアンはゴクリと息を呑んだ――****「お呼びでしょうか? ルシアン様」食後、書斎に戻ったルシアンはリカルドを呼び出していた。「ああ……呼んだ。何故俺がお前を呼んだのかは分かるか?」ジロリとリカルドを見るルシアン。「さ、さぁ……ですが何か、お叱りするために呼ばれたのですよね……?」「ほ〜う……中々お前は察しが良いな……」ルシアンは立ち上がると窓に近付き、外を眺めた。「ル、ルシアン様……?」「リカルド、そう言えばお前……イレーネ嬢と契約を交わした際に空き家を一軒プレゼントすると伝えてたよな?」「ええ、そうです。何しろイレーネさんは生家を手放したそうですから。ルシアン様との契約が終了すれば住む場所を無くしてしまいますよね?」「ま、まぁ確かにそうだな……」『契約が終了すれば』という言葉に何故かルシアンの胸がズキリと痛む。「そこで、私が契約終了時にルシアン様から託された屋敷をプレゼントさせていただくことにしたのです。でも、今から渡しても良いのですけ……えぇっ!? な、何故そんな恨めしそうな目で私を見るのですかぁ!?」ルシア
――22時「アハハハハ……ッ!」ルシアンの書斎にリカルドの笑い声が響き渡る。「何がおかしいんだ? 俺は50分近くもイレーネの話に付き合わされたのだぞ?」「よ、よく耐えられましたね……今までのルシアン様では考えられないことですよ。あ〜おかしい……」リカルドは余程面白かったのか、ハンカチで目頭を押さえた。「だが、そんな話はどうでもいい。問題だったのはゲオルグのことだ。祖父に呼ばれていたばかりか、イレーネと出会うとは……思いもしていなかった」腕組みするルシアン。「ええ、そうですね。でも噂に寄るとゲオルグ様は頻繁に『ヴァルト』に来ているらしいですよ。特に『クライン城』はお気に入りで訪れているそうです。あの城で働いている同僚から聞いたことがあります」「何? そうだったのか? そういう大事なことは俺に報告しろ」「ですが、ルシアン様はゲオルグ様の話になると機嫌が悪くなるではありませんか。それなのに話など出来ますか?」「そ、それでもいい。今度からゲオルグの情報は全て教えろ」「はい、承知いたしました。でも良かったではありませんか?」「何が良かったのだ?」リカルドの言葉に首を傾げるルシアン。「ええ。イレーネ様がゲオルグ様に手を付けられることが無かったことです。何しろあの方の女性癖の悪さは筋金入りですから。泣き寝入りした女性は数知れず……なんて言われていますよ?」「リカルド……お前、中々口が悪いな。……まぁ、あいつなら言われて当然か」ルシアンは苦笑する。「それだけではありません。あの方は自ら墓穴を掘ってくれました。よりにもよって賭け事が嫌いな伯爵様の前で、カジノ経営の話を持ち出すのですから。しかもマイスター家の所有する茶葉生産工場を潰してですよ!」「ず、随分興奮しているように見えるな……リカルド」「ええ、それは当然でしょう? 私は以前からあの方が嫌……苦手でしたから。その挙げ句に自分の立場も顧みず、図々……散々事業に口出しをされてきたではないですか?」「確かにそうだな」(今、リカルドのやつ……図々しいと言いかけなかったか?)若干、引き気味になりながら頷くルシアン。「ですが、これでもう次期当主はルシアン様に決定ですね。何しろ、ゲオルグ様にはルシアン様の補佐をしてもらうことにすると伯爵様がおっしゃられていたのですよね?」「ああ、そうだ。祖父
2人はソファに向かい合わせに座って話をしていた。ただし、イレーネが一方的に。「……そうそう。そこで出会った猫なのですが、毛がふわふわで頭を撫でて上げるとゴロゴロ喉を鳴らしたのですよ。あまりにも可愛くて、持っていたビスケットを分けてあげようと思ったのです。あ、ちなみにそのクッキーの味はレモン味だったのでしす。子猫にレモンなんて与えても良いのか一瞬迷いましたが、美味しそうに食べていましたわ」「そ、そうか……それは良かったな……」ルシアンは引きつった笑みを浮かべながらイレーネの話をじっと我慢して聞いていた。(いつまでイレーネの話は続くのだ? もう47分も話し続けているじゃないか……。こんなにおしゃべりなタイプだとは思わなかった……)チラリと腕時計を確認しながらルシアンは焦れていた。早く祖父との話を聞きたいのに、いつまで経ってもその話にならない。何度か話を遮ろうとは考えた。しかし、その度にメイド長の言葉が頭の中で木霊する。『自分の話をするのではなく、女性の話を先に聞いて差し上げるのです』という言葉が……。――そのとき。ボーンボーンボーン部屋に17時を告げる振り子時計の音が鳴り響いた。その時になり、初めてイレーネは我に返ったかのようにルシアンに謝罪した。「あ、いけない! 私としたことがルシアン様にお話するのが楽しくて、つい自分のことばかり話してしまいました。大変申し訳ございませんでした」「何? 俺に話をするのが楽しかったのか? それはつまり俺が聞き上手ということで良いのか?」ルシアンの顔に笑みが浮かぶ。「はい、そうですね。生まれて初めて、避暑地でリゾート気分を味わえたので、つい嬉しくて話し込んでしまいました」「そうか、そう思ってもらえたなら光栄だ。では、重要な話に入るその前に……ブリジット嬢とどのような会話をしたのだ?」ルシアンはブリジットとの会話が気になって仕方がなかったのだ。「え? ブリジット様とですか?」首を傾げるイレーネ。「ああ、そうだ。随分彼女と親しそうだったから……な……」そこまで口にしかけ、ルシアンは自分が失態を犯したことに気づいた。『女性同士の会話にあれこれ首を突っ込まれないほうがよろしいかと思います』(そうだ! メイド長にそう言われていたはずなのに……! ついブリジット嬢と交わした会話に首を突っ込もうとしてし
「イレーネ……一体どういうことなのだ? 俺よりもブリジット嬢を優先して応接室で話をしているなんて……」ルシアンはペンを握りしめながら、書類を眺めている。勿論、眺めているだけで内容など少しも頭に入ってはいないのだが。「落ち着いて下さい。ブリジット様に嫉妬している気持ちは分かりますが……」リカルドの言葉にルシアンは抗議する。「誰が嫉妬だ? 俺は嫉妬なんかしていない。イレーネが、いやな目に遭わされていないか気になるだけだ。ブリジット嬢は……その、気が強いからな……」「イレーネ様がブリジット様如きにひるまれると思ってらっしゃいますか?」「確かにイレーネは何事にも動じない、強靭な精神力を持っているな……」リカルドの言葉に同意するルシアン。「イレーネ様は良く言えばおおらか、悪く言えば図太い神経をお持ちの方です。その様なお方がブリジット様に負けるはずなどありません」メイド長が胸を張って言い切る。「た、確かにそうだな……」この3人、イレーネとブリジットに少々失礼な物言いをしていることに気づいてはいない。「だいたい、ブリジット様の対応を出来るのはこのお屋敷ではイレーネ様しかいらっしゃらないと思いますよ?」「ええ、私もそう思います、ルシアン様。本当にイレーネ様は頼りになるお方です」メイド長は笑顔で答える。「確かにそうだな……。だが、一体2人でどんな話をしていたのだろう……?」首をひねるルシアンにメイド長が忠告する。「リカルド様、女性同士の会話にあれこれ首を突っ込まれないほうがよろしいかと思います。そして自分の話をするのではなく、女性の話を先に聞いて差し上げるのです。聞き上手な男性は、とにかく女性に好かれます」「え? そうなのか?」「はい、そうです。詮索好きな男性は女性から好ましく思われません。はっきり言って好感度が下がってしまいます。逆に自分の話を良く聞いてくれる男性に女性は惹かれるのです」「わ、分かった……女性同士の会話には首を突っ込まないようにしよう。好感度を下げるわけにはいかないからな。そして女性の話を良く聞くのだな? 心得た」真面目なルシアンはメイド長の言葉をそのまんま真に受ける。イレーネとの関係が契約で結ばれているので、好感度など関係ないことをすっかり忘れているのであった。「では、私はこの辺で失礼致します。まだ仕事が残っておりま
イレーネとブリジットは2人でお茶を飲みながら応接室で話をしていた。「それにしても絵葉書を貰った時には驚いたわ。まさかルシアン様のお祖父様が暮らしているお城に滞在していたなんて」「驚かせて申し訳ございません。ですが、お友達になって下さいとお願いしておきながら自分の今居る滞在先をお伝えしておかないのは失礼かと思いましたので」ニコニコしながら答えるイレーネ。「ま、まぁそこまで丁寧に挨拶されるとは思わなかったわ。あなたって意外と礼儀正しいのね。それで? 『ヴァルト』は楽しかったのかしら?」「ええ、とても楽しかったです。とても自然が美しい場所ですし、情緒ある町並みも素敵でした。おしゃれな喫茶店も多く、是非ブリジット様とご一緒してみたいと思いました」「あら? 私のことを思い出してくれたのね?」ブリジットはまんざらでもなさそうに笑みを浮かべる。「ええ、勿論です。何しろブリジット様は素敵な洋品店に連れて行っていただいた恩人ですから」「そ、そうかしら? あなったて中々人を見る目があるわね。今日ここへ来たのは他でもないわ。実は偶然にもオペラのチケットが3枚手に入ったのよ。開催日は3か月後なのだけど、世界的に有名な歌姫が出演しているのよ。彼女の登場するオペラは大人気で半年先までチケットが手に入らないと言われているくらいなの」ブリジットがテーブルの上にチケットを置いた。「まぁ! オペラですか!? 凄いですわね! チケット拝見させていただいてもよろしいですか?」片田舎育ち、ましてや貧しい暮らしをしていたイレーネは当然オペラなど鑑賞したことはない。「ええ、いいわよ」「では失礼いたします」イレーネはチケットを手に取り、まじまじと見つめる。「『令嬢ヴィオレッタと侯爵の秘密』というオペラですか……何だか題名だけでもドキドキしてきますね」「ええ。恋愛要素がたっぷりのオペラなのよ。女性たちに大人気な小説をオペラにしたのだから、滅多なことでは手に入れられない貴重なチケットなの。これも私の家が名家だから手に入ったようなものよ」自慢気に語るブリジット。「流石は名門の御令嬢ですね」イレーネは心底感心する。「ええ、それでなのだけど……イレーネさん、一緒にこのオペラに行かない? 友人のアメリアと3人で。そのために、今日はここへ伺ったのよ」「え? 本当ですか!? ありが
「一体どういうことなのだ? ブリジット嬢には手紙を出しているのに、俺に手紙をよこさないとは……」「ああ、イレーネさん。イレーネさんにとっては、私たちよりも友情の方が大切なのでしょうか? この私がこんなにも心配しておりますのに……」ルシアンとリカルドは互いにブツブツ呟きあっている。「あ、あの〜……それでブリジット様はいかが致しましょうか? イレーネ様は今どうなっているのだと尋ねられて、強引に上がり込んでしまっているのですけど……やむを得ず、今応接室でお待ちいただいております」オロオロしながらフットマンが状況を告げる。「何ですって! 屋敷にあげてしまったのですか!?」「何故彼女をあげてしまうんだ!!」リカルドとルシアンの両方から責められるフットマン。「そ、そんなこと仰られても、私の一存でブリジット様を追い返せるはず無いではありませんか! あの方は由緒正しい伯爵家の御令嬢なのですよ!?」半分涙目になり、弁明に走るフットマン。「むぅ……言われてみれば当然だな……よし、こうなったら仕方がない。リカルド、お前がブリジット嬢の対応にあたれ」「ええ!? 何故私が!? いやですよ!」首をブンブン振るリカルド。「即答するな! 少しくらい躊躇したらどうなのだ!?」「勘弁してくださいよ。私だってブリジット様が苦手なのですよ!?」「とにかく、我々ではブリジット様は手に負えません。メイドたちも困り果てております。ルシアン様かリカルド様を出すように言っておられるのですよ!」言い合う2人に、オロオロするフットマン。「「う……」」ブリジットに名指しされたと聞かされ、ルシアンとリカルドは同時に呻く。「リカルド……」ルシアンは恨めしそうな目でリカルドを見る。「仕方ありませんね……分かりました。私が対応を……」リカルドが言いかけたとき――「ルシアン様! ご報告があります!!」突然、メイド長が開け放たれた書斎に慌てた様子で飛び込んできた。「今度は何だ? 揉め事なら、もう勘弁してくれ。ただでさえ頭を悩ませているのに」頭を抱えながらメイド長に尋ねるルシアン。「いいえ、揉め事なのではありません。お喜び下さい! イレーネ様がお戻りになられたのですよ!」「何だって! イレーネが!?」ルシアンが席を立つ。「本当ですか!?」リカルドの顔には笑みが浮かぶ。「
ゲオルグがマイスター伯爵に怒鳴られ、逃げるように城を去っていった翌日――イレーネは馬車の前に立っていた。「……本当にもう帰ってしまうのか? 寂しくなるのぉ……」外までイレーネを見送りに出ていた伯爵が残念そうにしている。「そう仰っていただけるなんて嬉しいです。けれど、お城の見学も十分させていただきましたし何よりルシアン様が待っているでしょうから。恐らく今頃私のことを心配していると思うのです」(きっとルシアン様は私が伯爵様と良い関係を築けているか心配しているはず。ゲオルグ様と伯爵様の会話の内容も報告しないと)イレーネは使命感に燃えていた。しかし、内情を知らないマイスター伯爵は彼女の本当の胸の内を知らない。「なるほど、そうか。2人の関係は良好ということの証だな。ルシアンもきっと、今頃イレーネ嬢の不在で寂しく思っているに違いない。なら、早く顔を見せてあげることだな」「はい。早くルシアン様の元に戻って、安心させてあげたいのです」勿論、これはイレーネの本心。何しろ、ルシアンを次期当主にさせる為の契約を結んでいるのだから。「何と! そこまで2人は思い合っていたのか……これは引き止めて悪いことをしたかな? だが、この様子なら安心だ。ルシアンもようやく目が覚めたのだろう。どうかこれからもルシアンのことをよろしく頼む」伯爵は笑顔でイレーネの肩をポンポンと叩く。「ええ、お任せ下さい。伯爵様。自分の役割は心得ておりますので。それではそろそろ失礼いたしますね」イレーネは丁寧に挨拶すると、伯爵に見送られて城を後にした――****一方その頃「デリア」では――「……またか……」手紙の束を前に、ルシアンがため息をつく。「また、イレーネさんからのお手紙を探しておられたのですか? ルシアン様」紅茶を淹れていたリカルドが声をかける。「い、いや! 違うぞ! と、取引先の会社からの報告書を探していたところだ!」バサバサと手紙の束を片付けるルシアン。その様子を見たリカルドが肩をすくめる。「全くルシアン様は素直になれない方ですね。正直にイレーネさんの手紙を待っていると仰っしゃればよいではありませんか? ……本当に、何故伯爵様はイレーネさんのことを教えてくださらないのでしょう……」その言葉にルシアンは反応する。「リカルド、お前まさかまた……祖父に電話を入れたのか?